取引コストの算数 — 始める前に負けが決まる仕組み
「GMOコインのETH_JPYは取引手数料無料」——それでも、取引には確実にコストがかかります。この記事では、本プロジェクトが実測した数字だけを使った四則演算で、「始める前に負けが決まる」構造を確認します。以降のすべての実験は、この算数の上に立っています。
1. スプレッドという見えない料金
板(注文一覧)には常に「買いたい人の最高値」と「売りたい人の最安値」の間に隙間があります。今すぐ買って今すぐ売ると、この隙間のぶんだけ確実に損をする——これが実効スプレッド(約定価格と仲値との差の2倍、つまり往復で支払う全幅を実測したもの)です。
本プロジェクトの最初の実験 EXP-0001 は、GMOコイン ETH_JPY の実効スプレッドを72.27万件のサンプル(2026-02-17以降)から実測しました。結果は中央値 5.6bps(p50=5.58、p90=9.45)。bpsは0.01%のことで(1bp=0.01%)、100万円の取引なら560円です。p50/p90はパーセンタイル、つまり「全サンプルを小さい順に並べて50%目・90%目の値」。半分のケースで5.58bps以上、1割のケースでは9.45bps以上かかるということです。
テイカーとメイカー
- テイカー:今ある注文にぶつけて即座に約定する側。スプレッドを払う。
- メイカー:指値を置いて待つ側。スプレッドを受け取れる可能性がある。
テイカーで買って売る(往復)と、スプレッドのほぼ全幅 ≈5.6bps を失います。手数料ゼロでも、です。
2. 値動きはコストを取り返せるか
5.6bpsの「入場料」を、値動きで取り返せるでしょうか。同じ実測によると、ETH_JPYの1分後の値動きは中央値4.47bps(p90=15.79)、5分後でも8.52bpsです。
つまり典型的な1分間の値動き(4.47bps)は、往復コスト(5.6bps)より小さい。方向を100%完璧に当てても、半分以上のケースで値動きがコストに届きません。これが本プロジェクトの土台となる結論の一つです:短期テイカー戦略は、設計上負ける。 予測精度の問題ではなく、引き算の問題です。
3. 持っているだけでかかるコスト
信用取引(レバレッジ)の建玉には**キャリー(建玉コスト)として1日0.04%**が毎朝06:00 JSTに徴収されます。本プロジェクトの想定資本 ≈10 ETH ≈ ¥262万(2026-06-10時点 1ETH=262,456円)を建て続けると、年間約¥38.3万。何もしなくても払う「家賃」です(現物保有ならゼロ)。
この家賃は複数日保有する戦略に効きます。実際、複数日トレンド追随を検証した EXP-0015 は、コスト前では+12.9bps/日に見えたものの、キャリーとスプレッド合計18bpsのコストを引くと統計的有意性を失いました。
4. 税の非対称性 — 最後の関門
最後に税金です。日本では暗号資産の利益は雑所得として総合課税され、本プロジェクトの想定では限界税率(追加で得た1円にかかる税率)が約35〜43%。さらに損失の繰越控除がないため、利益は約57〜65%しか残らないのに、損失は100%自分持ちという非対称になります。
この非対称性の帰結は重要です。コストを引いた期待値(確率で重みづけした平均損益)がゼロ付近の戦略は、税引後では厳密にマイナスになります。「トントンならやってみる価値がある」は成立しません。なお、申告分離課税20.315%への税制変更の議論はありますが、実現するかもしれないという「オプション価値」にすぎず、計画の前提にはしていません。
5. まとめの一表
1約定あたりのエッジ(優位)別に、月間収支を試算します(0.5 ETH×1日50約定×30日の想定)。
| 1約定あたりエッジ | 粗利/月 | 税引後/月 | 継続フロア(税引後¥2万) |
|---|---|---|---|
| +1.0bps | ¥1.97万 | ¥0.68〜1.37万 | 未達 |
| +2.5bps(現状の楽観上限) | ¥4.91万 | ¥1.72〜3.44万 | 条件次第 |
+2.5bpsは、唯一生き残っている仮説(EXP-0009、記事6)の楽観側の上限です。つまり最良ケースですら継続フロアぎりぎり——本プロジェクトが「儲けるプロジェクト」ではなく「上限が固定された測定」である理由が、この表に集約されています。
次の記事では、こうしたコストの壁を「越えたように見える」戦略がなぜ偽物でありうるのか——自分をだまさないための仕組みを扱います。
再現性情報(脚注): スプレッド・値動きの実測値は EXP-0001(docs/research/experiments/EXP-0001-gmo-spread-divergence.md、サンプル72.27万件、データ期間 2026-02-17以降)。キャリー0.04%/日・コストモデルは docs/harness/guardrails.md §5、資本フレーム・税の試算・継続フロアは docs/harness/after-tax-minimum-edge.md、EXP-0015の評決は docs/research/experiments/EXP-0015-multiday-trend-carry-aware.md に基づく(リポジトリ main ブランチ、コミット 093f01d 時点)。